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DATE : 2022.07.02
私の痩身体験
裕 先生
神奈川の○○です。
いつもご指導いただき、ありがとうございます。
私の痩身体験です。
私は体操競技に中学から大学まで、携わりました。
中学生ではチビで生理もなかなか来なくて、初潮は中2くらい。
高校入学前には一気に身長が伸びました(競技を一旦止めた時期に伸びる模様)
すると体重も増え、顧問より「試合前のダイエット」を勧められ、朝は食べない、昼はりんごを半分、夜はしっかり食べるという時期を経験したことがあります。
朝を食べないのは、ぎりぎりまで寝ていたからです。
私たちの学生時代は、言われたことはやる、けど「期間限定」でした。
そして大学に入学する前には、まさに思春期の食べたい盛りに入り、受験勉強の合間にケーキやピザの食べ放題に仲間と出掛けるのが楽しみでした(とにかく、ビックリするほどよく食べられました)
体重ははっきり記憶しておりませんが、53kgがマイベスト体重と思っていました。
(補足: 自力整体歴7年間のうち、断食後は46〜48kg、普段の生活中の現在は50kgです)
大学での競技生活の中では、もっと過酷な減量になりました。
マネージャーが体重計の前で、プレッシャーをかけ計測をします。
そして、やはり試合前になると減量をします。
普段の体重の3〜5kgの減量は当たり前でした。
見た目(体操は美しさも競技のうちである)と怪我の予防も兼ねて目標数値を決める、
主要な選手は本当に大変そうでした。
方法は、食べる量を減らす、汗をかく(ラップをまき減量スーツを着て走る、サウナで汗を出すなど)
体重計は体育館内にあるので自由に計測できます。今振り返ると、すごい精神力でした。
でも試合が終われば開放感とともに、大量に、そして永遠に食べていました(笑)
私の話に戻りますが、腰痛で途中で競技を断念したので、この減量地獄からは、お先に抜けることが叶いました。
最高に痩せたのは最後の試合前の47kg
この時には、生理が半年ほどこなくて、先々子どもをつくることが出来ない身体になってしまったのか!と悩んだこともありました。
引退後、1ヶ月で10kg太り58kg、生理は直ぐにきました。
その後は、選手のサポート役にまわりましたが、プレッシャーや負担を感じる役割の中、自信が持てずに嫌になり、そうこうするうちに盲腸になりました。
下宿生活を始めて半年くらい、入院中の体重は最高値の68kgです。
一年くらいで60kgくらいにはなったかもしれませんが、どうして痩せたのか?はよく覚えていません。
規則正しく食べていたのかも定かではありませんが、体育大で授業で身体を動かしたりしていたので、何とかやっていたのだろうなと思います。
結婚式のドレスの試着をした時には58kgで、背中のファスナーが上がらずでした。そして、半年後の結婚式までには、マイベスト53kgに落としました。
結婚後の大仕事、妊娠、出産の話をします。
一人目妊娠中は12kg、二人目の時には10kgの体重増、何を食べたらこんなに太るのか?と看護師に叱られていました。
出産時間も一人目は丸2日かかり、二人目は、、、その半分の24時間(人気の産婦人科に通い、二人目は陣痛誘発剤を使う計画出産でした)
ともかく、陣痛が定期的に遠のくのでした。
骨盤が歪んでいたり、開閉がスムーズでなく、開き切る、閉じ切るができない身体だったのだなと振り返ります。妊娠出産が楽だったら、3人、4人と子どもを産めたのかもしれません。
腰をハンマーで叩かれているような痛み、、、自力整体していたら、痛みが無かったのでしょうね。
ちなみに、妹は無痛分娩を選択して、子どもの呼吸が止まった状態で生まれてきました。
何事も自然が一番ですね。
二人目出産のここまでで30歳です。
産後は落ち着き、男の子二人の子育てで自然に痩せていきました。
二人目の出産後、1年後、生理が再開した当たりでしたでしょうか、人生初のギックリ腰を経験しました。
眼の前が真っ白になり、動けなくなり、でもこどもが3歳と1歳、近くの整骨院にどうやって行ったのか覚えていませんが、どうしていいのか分からずに泣いてました(笑)
今だから笑える、もっと早くに自力整体を知っていたらと悔やむばかりですね。
子育てのストレスに食べたり飲んだり、不摂生な生活でした。
お恥ずかしいお話ですが、笑っていただければ、幸いです。
大変、長くなり失礼を致しました。(写真はイメージ)
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